第四の『狼王』のための草稿。

動物の英雄たち (シートン動物記 4)
▼かつてのダコタ準州、バッドランドと呼ばれる荒れ地に、ある強大な王がいた。堅固な岩山の城塞に居を構え、近隣の牧場から最も上等な牛を税として取り立てる狼の王―――《古強者の牡山羊》の名で恐れられた不敗の王者、黒たてがみのビリーである。空が血を流したような赤い夕陽に染まる頃、冷えた薄闇を引き裂いて、王の遠吠えが荒野に渡る。夜は彼らの狩りの時間だ。忌々しい二本足どもの鉄と火薬の匂いが夜闇のあいだ役に立たなくなることを、王の叡智は見通した。
▼牧場主のペンルーフは様々な罠を仕掛け、何人もの猟師と猟犬を雇い入れ、あくまでビリーの徴収に抗おうとしたが、しかし結果は変わらなかった。賢王の知はあらゆる罠を見破り、あらゆる追跡を振り切った。罠や猟師への支払いに加え、牛たちを夜ごと何頭もだめにされ、このままでは経営が立ちゆかないと危ぶんだペンルーフは何としてもビリーを打倒すべく、ひっきりなしに狩りに出かけていたが、少しも成果は上がらなかった。
▼ある夜、ペンルーフ狩猟隊が焚き火を囲んで休んでいると、そう遠くない闇の向こうから低く力強い獣の咆吼が響き渡った。猟犬たちは首まわりの毛を逆立てた。ある耳の良い猟師が、確かにビリーの吼え声だと聞き分け―――おそらくは昼の間中われわれの動向を密かに見張り、すっかり暗く銃が使えなくなってから、間抜けな人間たちをからかいにきたのだろうと呟いた。「おれたちに帰れと言ってるんですよ。ここは狼の国だ、人間は人間の国へ帰れとね」
▼敵意に燃える猟犬たちの何頭かは、ついに抑えが利かなくなり、矢のように闇の中へ飛び込んでいったが、すぐに悲鳴を上げて逃げ帰った。一頭は肩を、もう一頭は脇腹を手ひどくやられ、この先の狩りには連れていけそうになかった。脇腹に傷を受けた犬は、夜明け前に息を引きとった。男たちは怒りに燃えて、朝日を待たずに出発しようと気勢を上げた。視界は利かずとも猟犬の鼻を頼りに追跡できると踏んでのことだったが、すっかり怖気づいてしまった犬たちは、もはや役には立たなかった。ペンルーフJr.が怒りに震える声で「ちくしょう、ビリーのやつめ。きっと山ほど仲間を連れてきやがったんだろうな」というと、猟師の一人が答えた。「いいや、坊ちゃん。狼の足跡は、ばかでかいのが一つっきりでしたよ」
▼九月の末に始まった狩猟隊の追跡は何の成果も上げられぬまま十月の末になり、人も犬も馬もくたびれ果てて、ある犬は命を落とし、ある男は諦めて去った。しかし、さらに何日かが過ぎた朝、ついに雪が荒野を染めあげた。いよいよ追跡を詰められる絶好の季節が訪れたのだ。狩猟隊は疲弊していたが、それはビリーも同じはずだった。男たちは残った勇気を振り絞り、執念を燃やしながら追跡を続け、ようやく再びビリーの足跡に追いついた―――疲れを忘れたように雪煙を蹴立て、猛然と走り出す犬と馬の群れ。長い長い狩りの終わりが近づくのを、誰もが予感していたのだ。
▼やがて雪のない谷間に辿り着き、犬の鼻だけが頼りになると、急に犬たちは三方向へ駆けだした。分散し、戦力の半減した犬たちを各個に迎撃して追跡を振り切る狼たちの常套手段だ。こうなると狩猟隊は神頼みで道を選ぶ他なかったが、彼らの採った道の先には、孤立した小柄な若い狼が猟犬たちに追いつめられ助けを求めるのが遠目に見えるだけで、そこにビリーの姿はなかった。しかし、狩猟隊が現場へ馬を急がせると、とつぜん猟犬たちの死角から巨大な狼が飛び出して、ひとなぎで犬の群れを蹴散らしてしまった―――ビリーは仲間を見捨てなかったのだ。「この隙に逃げ出せば振り切れたかも知れんものを、まったく大した野郎だ!」 猟師たちの誰もが、ビリーの勇気に惜しみない賛辞を贈った。長い旅の道程を経て、いまや狩猟隊と狼たちとは、互いに心の通い合った兄弟となっていたのだ。
▼それから何時間の猛追が続いたのか、もう誰も覚えてはいなかった。雪の高地を疾走する、狼と、犬と、人と馬―――誰もがへとへとに疲れ切り、それでも誰も走るのをやめようとはしない。陽が暮れ始める頃、ビリーは谷間に飛び込んで馬の追跡を振り切ると、狩猟隊が谷を渡れる道を探す間に、対面の崖を登りだした。逃げるビリーも、追う犬も、どちらも息が詰まり、もはや声すら立てられないでいた。しかし疲れ果てた足どりでも迷いなく登り切ったところを見ると、その岩山こそが長年すみなれたビリーの城なのだろう……すぐ後ろに十五頭もの猟犬が迫り、もはや退路なしと悟って、愛する我が家を死に場所として選んだのだろうか? そこでビリーは向き直ると、ついに犬たちとの最後の戦いに心を決めたようだった。
▼崖あいの道幅は犬一頭がやっとの狭さだった。猟犬たちは一頭ずつ、一列になって、疲れ果てたビリーへ向けて間断なく突撃した―――その全ての襲い来る牙を紙一重かいくぐり、ビリーは敵という敵を次々と谷底へ投げ飛ばしてみせた。突き出た岩々に叩きつけられながら、犬たちは悲鳴とともに闇の底へ消えていった。わずか数瞬の出来事だった。見上げていた男たちの誰もが、銃を握っていることも忘れ、神がこの世に遣わした最も美しい獣の、最も美しい瞬間に魅了されていた。仮に魅了されずにいたとしても、あまりに素早い戦いに、どちらにせよ何の手出しも出来はしなかっただろう……黒たてがみを逆立てたまま立ちつくしていたビリーが、やがて勝利の吼え声を轟かせた。あれだけの激しい追跡の後だというのに微塵の疲れも感じさせないような、荒々しく自信に満ちた遠吠えだった。
▼ビリーが闇の向こうへ消えるまで、誰も動くことができないでいた。谷底へ降り、生き残った犬が一頭もいないことを確認したとき、彼らの長い旅は終わった。犬なしでは、これ以上の追跡は不可能だった―――ペンルーフ狩猟隊の猟犬十五頭は、たった一頭の狼によって全滅させられたのだ。参加した猟師の誰もが一生涯わすれることのできない、あまりにもすばやく、あまりにも美しく、あまりにも見事な、素晴らしい戦いだけを彼らの記憶に残して。
▼丘の影に太陽が沈めば、狼の叫びが荒野を渡る。王の鬨(とき)に応えるように、あちこちで、いくつもの遠吠えが響きを上げる……雄々しく、勇ましく、悲しげに。夜は彼らの狩りの時間だ。どこかの谷底に牛の悲鳴が起こり、すぐに冷たい薄闇がその声を掻き消した。欠けた月に向かってウィスキーを傾けながら、ある猟師が言った。「やつですよ。また次々と牛がやられるでしょう。ペンルーフのおやじさんは、あの牧場を売りたいと言っていましたよ」


 ―――こうしてビリーは「勝利を得た狼」として物語は幕を閉じます。が、実際にはバッドランド地方の狼たちは、時代を下り、一匹のこらず狩り尽くされてしまいました。彼らもまた他の狼たちと同様、滅びの運命を克ち超えることは出来なかったのです。もちろん、生きものがそのドラマを終える時、ただの一つの例外もなく必ず己の無力による敗北を噛みしめなければならないということは、他の誰より野生動物たちを愛したシートン自身が一番よく知っていたはずです……それでも彼は、せめて著作の中でくらい、一度だけでもいい、狼たちに終生の勝利を勝ちとってほしかった。その希望をビリーに託したのだ。これはシートン先生の、はかない願いの物語なのです。
 シートン先生の時折かいま見せる、こうした俯瞰から冷徹に現実を見据える非情な「目」になり切れないロマンチックな弱さを、それが観察者としては致命的な欠点であるとわかっていながら、それでも私は、どうしても憎めない。この『バッドランドのビリー』は、数え切れないほどの狼たちの死や悲しみや無念を、胸を痛め心を傷つけながら、しかし目を逸らさずに見つめ続けてきたシートン先生だからこそ書くことを許される物語であり、それゆえの結末なのだと思うと、その切なさに打ちのめされざるをえません。おはなし的には狼たちにとってのハッピーエンドでありながら、しかし今ある現実を知る我々には逆説的に、あまりにも重い悲しみとなってのしかかってくる。だからこそビリーは、ロボやクルトーやベートたちの「敗れざる物語」の後ろに、どうしても立ち並ばなければならないと思うのです。